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Certificate Holder


正畠宏一
100.0   Tons
情報通信業 環境
User ID : 0204-2600( Individual )

よく環境との共存という言葉を聞くことがあります。しかしこれはあまり正しい表現でないと思います。未だ我々、人類はどっぷりと環境に「依存」をしているのであり、まだまだ環境と対等な位置までは上り詰めていない、成長の途上にあると私は思っています。

地球温暖化をはじめとする環境問題を話す時、「人間の性なので仕方がない、結局この問題は進むところまで進み、そんな中でも結局私と子孫だけは生き残るように努力をするから大丈夫」と開き直られる方もいらっしゃいますが、本当にそうでしょうか?
基本的な衣食住を満たされない不満を持つ民を抱え、核で武装した国々が生存をかけて争うようになったら、きっと生き残るのは至難の業でしょう。

こういった結末にならないようにするには、いったいどうしたら良いでしょうか?

人間の一人一人の気持ちがお金という形で流通をして、膨張をし続けて、現在の状態があります。これと同様に、人々が良い環境を望み、それを保全することを価値として認められ、流通し、更にそれが人に望まれる、といったサイクルを作り出すことがそもそもの第一歩なのではないかと考えました。

また、現在この地球上で相対的に資源を多く使い、裕福な暮らしをしている者達が、公平でないという理由だけで、ゴミを処理するつもりもない、ゴミを処理する価値も認めない、良い環境が存在することはあたりまえ、という態度では、そもそも、皆が進む先が見えていないという意味で、この問題は全く救いがないのではないかとも思います。

視点を変えて、別に倫理観の問題ではなく、今度は自分勝手に考えて見てください。
月日が経ち体が弱ったころに、もしも環境が荒廃をし、激しく希少資源を奪い合う未来が到来をしたとして(常に必ずしもそうならない可能性はありますが、現在予測される期待値を考慮した場合に)、更に過酷な未来に直面しているであろう自分の次の世代に一体どういう言い訳をしますか?「いやー、その当時は自分だけ損したくなくてね」とか「そうなると思わなかったんだよね」で済ませられるでしょうか?

最後に、この問題は、もう少し明るい視点で見ますと、人類が自分がより大きな存在の一部であると認識して行動できるか、言い換えますと、ただの動物から脱皮できるかを、本当の意味で試されているのではないかと思ったりもしますが、いかがでしょうか?